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1943年1月19日、テキサス州ポートアーサー生まれ。多感な14歳頃から保守的なポートアーサーの町や住人達の雰囲気になじめず、深い疎外感を味わっていたが、17歳の時にレッド・べりーやベッシ―スミスなどのブルースに惹かれ、自分でもブルーグラスのバンドでカントリーやブルースを歌いはじめる。
テキサス州立大学を中退後、いくつかの仕事を転々とし、`66年、ヒッピーが登場して新しい若者文化の発信地となりつつあったサンフランシスコに移り、そこで女性ヴォーカリストを捜していた地元のバンド゛ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー゛に誘われて加入した。
バンドは`67年6月の「モンタレ―・ポップ・フェスティバル」に出演し一躍脚光を浴び、そこで全身を震わせて歌うジャニスに将来性を感じたCBSが彼らと契約。`68年8月発売したライヴ・アルバム「チープ・スリル」は、全米アルバム・チャートで8週連続第一位というベスト・セラーを記録した。
その後、バンドを離れたジャニスは、ソロとしていくつかのバンドと精力的なライブ/レコーディング活動を続けるが、以前から常用していたヘロインとアルコールは次第に彼女の身体を蝕みはじめていた。`70年8月から新バンド゛フル・ティルト・ブギ―゛とニューアルバム「パール」のレコーディングを開始したものの、ラスト1曲の歌入れを残し同年10月4日、ハリウッドのランドマーク・モーテルの一室で死体で発見された。死因はヘロインの多量摂取。享年27歳だった。 |
黄金の声をもつ少女
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ジャニスはテキサス州のポートアーサーという煙っぽくて湿っぽい石油精製の町で、三人兄弟の一番上として生まれた。 50年代に郊外に住む中流家庭の他の子供達とさして変わらない環境で育ち、子供時代にはやや太りぎみだった体は思春期には苦痛を感じるほどデブになった(彼女の母親は一度、娘の奇妙な服装は太りすぎなのを隠そうとしてだと説明している)。 50年代後半のテキサス州にあった重苦しい雰囲気に嫌気がさしたジャニスは身近なすべてのもの、すべての人を憎むようになり、テキサス大で「キャンパスで一番醜い人」に選ばれたことでその増悪が無慈悲にも戻ってくる。 そんな時に「タイム」誌でジャック・ケルアックや「麻薬をやる堕落した不良たち」のことを読み、ビートニクになることを決心してサンフランシスコに旅立った。 その頃にできた友達は彼女のことを、病的なほどめちゃくちゃに覚醒剤に狂っていて「目のまわりにきれいに小さなクマをつくって道を歩いているような人」だったと評す。 ジャニスはすぐに、いやいやながらもテキサスに戻って重度メセドリン中毒を治すことになった。次に何をやるべきか迷ったが、彼女の生をむりやり引きずっていく力になった゛あの声゛がやってきて、ある雨の日の午後に、見捨てられた灯台でオデッタの曲をかけながら歌っていた彼女をつかまえたのである。
彼女は初め、画家になろうと野心を燃やしていた。 ポロック、デ・クーニングといった抽象表現主義の荒々しい画家か、ゴッホ___あのとうもろこし畑に炎となって自分の原子を描きつけた狂気の神秘家のように。 しかし、゛声゛に「おまえはシンガーなのだ」と告げられ、彼女はカントリー・ミュージック・クラブ(以前はガソリン・スタンドだった)でウォーラー・クリーク・ボーイズというブルーグラスのグループと演奏を始めた。 いっぽうサンフランシスコでは、ロックが徐々にフォークとジャズに取って代わっていき、その地でできたロック・グループが実験的に、のちにサンフランシスコ・サウンドと呼ばれるようになる曲を試し始めていた。 ジャニスと同じテキサス人のチェット・ヘルムズがそのシーンの大物であり、彼は、配下のグループ、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーが「可愛い子ちゃん歌手」を捜すことになると、オースティンで聞いたガラガラ声をした丸ぽちゃの女の子を思い出したのだ。
「トラヴィスは私をひょいとすくっただけだったね」と、ジャニスは、自分の素晴らしい音楽人生の始まり方を訊かれてこう答えている。
「彼は、「服を取って来い、カリフォルニアに行くぞ」って言ったんだ。ニュー・メキシコの途中まで行ったところで、だまされてビッグ・ブラザーに参加することになったんだってわかったよ。あいつはすごくいい奴だったのにね・・・・・。グループと初めて一緒になったのは、えーと、どこでだったか憶えていない。エレキの音楽やドラムで歌ったことなんか一度もなかったからすごくビビッたよ。でも、ステージに立って歌い始めたら、ワオゥッ、すごかったんだ。憶えているのは興奮だけさ。なんて素敵だったんだ。音楽がバンバン鳴って、みんなが踊っていて、ライトがピカピカ点滅している。こっちは上でマイクに向かって歌を続けていてね。で、それが気に入ったから言ったんだ。「仲間になるよ」って」
ビッグ・ブラザー(スペーシーな音を出す、ブロンドの長髪をしたインディアンたちのバンド)とジャニスの南部風ブルースの組み合わせはほとんど信じられないほど完璧で、彼らはグレートフル・デッドやジェファーソン・エアプレーン、カントリー・ジョーなどとともにサンフランシスコのヒップな世界で中核をなした。 この時点からジャニスは、彗星のように現れて消えた四年間の生涯を滑るように息もつけないほど速く、そしてブルースの詩のように悲劇的で情熱的に進んだ。もしもその進行をどこか途中で止められるのなら、1966年のパンハンドル公園かサンフランシスコのサイケデリック祭りによる祝祭日のどこかにあったはずだ。 彼女がもっとも清く澄んだ状態で、楽器を乗せた古いトラックの荷台からブルースをがなったあの夏至のころの日付で。 彼女の髪の毛は電気を帯びて三角形に広がり、イボ族の花嫁みたいにたくさんの腕輪をつけるから体重も増える。 サザン・コンフォートのボトルをラッパ飲みし、うす汚いマザー・グースが麻薬で恍惚となって忘我状態にある子供たちに童謡を歌ってきかせるように、威勢のいいブルースをがなる。 彼女はサンフランシスコの申し子で、新世界の夜明けのすべてを体現していた。
文 デヴィド・ダルトン
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