
「STICKEY FINGERS」
Rolling Stones

ジョン・レノンと
ウォーホール
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ウォーホールはその年の残りを______すなわち、60年代の残りを______内臓に受けた傷と、突然彼を襲った死の恐怖から回復するのに費やした。 ファクトリーには新しい鍵とセキュリティー設備が設置された。 ウォーホールは、映画にもペインティングにも一切取りかかろうとしなかった(1968年以降、彼は映画への関わりを、もっぱらプロデューサーの役割だけに限定していた)。 70年代がすぐそこまで迫っていた1969年の秋、彼は 「インタビュー」 誌を創刊した。 「ローリング・ストーン」 誌に触発されたと本人は語っていたが、こちらはもっぱらアートとゴシップ、そしてその月に羽振りをきかせている有名人とのお喋り______本質的にはこれもゴシップだ______からなっていた。 この雑誌には、紛うことのない活気があった。 おそらくはアンディーも予見していたのだろう、70年代にはゴシップ自体がひとつの芸術形態となったのだ。 そうした中でアンディーの友人、トルーマン・カポーティは際立った仕事ぶりを見せ、1973年の 「ローリング・ストーンズ」 誌では、アンディーによるカポーティのインタビューが実現した。
70年代のアンディー・ウォーホールは彼自身が満艦飾の有名人だった。 ローリング・ストーンズは彼に、71年のアルバム 「スティッキー・フィンガーズ」 のカバーを以来した(股間の写真とジッパーを巧みに用いた例のアレである)。 ビアンカ・ジャガーが彼の親友となった。 有名人デザイナーのホルストンや、 「ヴォーグ」 の高名な編集者、ダイアナ・ヴリーランドも同様だった。 アンディーはストゥーディオ54の常連になり、リズ・テイラー、ライザ・ミネリといったいかにもファブな人々とつるんでいた。
「社交病にかかっているんだ」 アンディーは自嘲気味に言った。 「毎晩、出歩かずにはいられなくて」( 「でも彼は、しょっちゅう早く家にも帰ってたと思う」 とデザイナーの友人、ダイアン・フォン・ファーステンバーグは証言している)。
初期の 「インタビュー」 に関わり、後にファクトリーの女優となったスーザン・ブロンドは、アンディーをマイケル・ジャクソンに紹介した夜のことを、こんな風に回想している(ちなみにマイケルは、ごく早い時期に 「インタビュー」 の表紙を飾っていた)。
「彼、マイケルに子供時代からの舞台衣装は全部とってあるあるのかって訊いたの。 その通り、マイケルは全部保管してたわ。 アンディーはそれがすごく気に入ったのね______ほら、ふたりとも何だってコレクトしてたじゃない? わたしたちはレジ−ンの店で食事して、で、わたしがマイケルに、踊ってくれない?と言ったわけ。 そしたら彼 「いや、ぼくは踊らないんだ。 それは仕事だから」 ですって。 ふたりとも、何が仕事で何が仕事じゃないかっていう区別の仕方が、すごく変わっていたのよ、ね? その場で意気投合してたみたい。 そうそう、マイケルがアンディーに、子供はいるかって訊いたの。 マイケルはいつもその質問をするのよ。 アンディーはいないと答えたわ」
夜の有名人暮らしを始めたアンディーは、常にポラロイド・カメラと小型のテープレコーダーを携帯し、その場の雰囲気をドキュメントしていた。
「狂ったようにイメージをコレクトしてたな」 とミック・ジャガーは、好ましげな微笑みを浮かべる。 「何百万という数の写真を撮っていた。 それがスープを飲んでる時で、しかもミネストローネが口の端から一筋垂れてるなんて時には、けっこう参っちゃったりもしたけどね。 それといつもテーブルにテープレコーダーを置いては、その晩のくだらない会話をコレクトしてたよ」
ウォーホールにとって、テープによる生録音とは、ある種のコンセプチュアルな安らぎを与えてくれるものだった。 「50年代後半に」 とかつて彼は書いている。
「僕はTVとの情事を開始し、それは今にいたるまで続いている・・・・・・でも僕が結婚したのは1964年、最初のテープレコーダーを手に入れた時のことだ。 僕の奥さん・・・・・。
テープレコーダーを入手したことで、僕のエモ−ショナルな生活(があったとして)にピリオドが打たれた。 でも僕はそれがなくなって嬉しかった。 この先は何の問題も起こらない。 問題とはすなわちいいテープのことなのだから・・・・・・興味深い問題が、そのまま興味深いテープとなった。 誰もがそのことを知っていて、テープに向かって演技した。 どの問題が本物で、どの問題がテープ用に誇張されたものなのか、それは誰にもわからない。 もっといいことには、問題を口にしている当人までが、本当の問題なのか、それとも自分は演技しているだけなのか、区別できなくなってしまうのだ」
その一方で、世界一有名なアーティストは、相変わらず自分には何もいうことがないと主張し続けたが、恋に破れた者たちには決まったアドバイスの言葉を用意していた。
「わたしがボーイフレンドのことで悩んでいると」 とスーザン・ブロンドは回想する。 「彼はいつも言ってくれたわ。 「一生懸命仕事することだよ。 そうすれば世界中の富と名声がきみのものになる。男なんて選び放題さ」 って」。
70年代も末期になると、ウォーホールその人が彼のもっとも偉大な芸術作品のように見えはじめてきた。 彼のペインティングはよりリッチに、より画家の作品らしくなり______中でも1972年に始まったオーバーサイズの 「毛沢東」 シリーズ______デリケートな抑制を利かせた1974年の母親像は、新たな感情の表出を示唆していた。 彼はまた、1975年の荒々しいミック・ジャガーのポートレイトは、翌年、イギリスを席巻することになる切り貼りのパンク・グラフィックをみごとに予見していたのである。
しかし、80年代がスタートすると、アンディー・ウォーホールはもはやショッキングには見えなくなっていた______おそらくこれは、彼のビジョンがまんべんなく行き渡ったことの証なのだろう。 50代に入った彼は、金持ちや有名人の求めに応じてポートレイトを製作し、成功の兆しを見せはじめた 「インタビュー」 誌の後見人を務め、キース・へリング、ケニ−・シャーフ、ジャン=ミッシェル・バスキアといった新世代のニューヨーク派アーティストの規範となり導師となった。 ケーブルTVで 「アンディ・ウォホールのTV」 なる自前の番組をスタートさせ、後にはMTVで 「アンディー・ウォーホールの15分間」を開始した。コマーシャルやロック・ビデオ、さらには 「ザ・ラヴ・ボート」 にも出演した。 ファースト・フードのレストラン______アンディマット
! ______をニューヨークでホイットニー美術館のすぐ隣に開く計画もあった。 新たな拡張主義に目覚めた彼は、フランツ・カフカやサラ・バーンハートといったテーマ(
「20世紀ユダヤ人の肖像」 なるシリーズ用に)や、子ども向きのペインティング(子供の目の高さに掛けられる)、絶滅の危機に晒された動物のペインティングなどにも関心を示しはじめた。 死の直前には、レオナルド・ダ・ヴィンチによる 「最後の晩餐」 のバージョンを完成させ、これはオリジナルを修復する間、ミラノで展示される予定になっていた。
ウォーホールの若くて新しいものに対する尽きせぬ情熱は、病と死への恐怖感を覆い隠していた。 彼はワーク・アウトに励み、ビタミン剤を終始口の中に放り込んでいた。 しかし運命の87年2月21日、胆のうの手術のため、ニューヨーク・ホスピタル=コーネル・メディカル・センターに入院。 手術自体は成功したが、翌朝の5時30分、心臓発作に襲われ、1時間後に死亡した。
ウォーホールは2月26日、ピッツバーグで母親(70年代に死去していた)と父親の隣に埋葬された。 彼の遺産は1000万ドルから1500万ドルと見積もられ、大量のペインティング、ドローイング、彫刻、テープ、フィルム、そして何冊かの本______莫大な資料が後に残された。 しかし、それでも疑問は消えない。 アンディ・ウォーホールとは何者だったのか? 彼は何事をなしたのか、そしてその理由は?
実のところ、オリジナルのファクトリーで繰り広げられるワイルドなセックスとドラッグのシーンを見守っていた銀髪の超人は、毎週教会通いを欠かさない熱心なカトリック教徒だった。 明らかに彼はドラッグ狂ではなく、セックスに関しても、決して積極的とは言えなかった。 彼は見つめているのが好きだった______それが、彼のアートの基本的なスタンスであり、だからこそ有名人へのこだわりが主要なテーマにもなったのだ。 しかし彼はまず第一にアーティストだった。 彼の名前を冠したビジュアル・アートの基金に遺産の大部分を回すように記した遺言は、アートに対する彼の真撃な献身ぶりを明らかにするものだった(遺言には他に、50万ドルを兄のポールとジョンとで分配し、長年のビジネス・パートナー、フレッド・ヒューズには25万ドルを与えるむねが記されていた)。
ウォーホールの死は、様々な分野で惜しまれている。
ルー・リードは彼を 「誰かを利用しようなどとは、一度たりとも考えなかった男」 と呼んだ。 「この業界では、実に稀有な人物だった。 みんな知らないのさ、彼がどれだけ好人物だったか」
「おそらく、彼がもっとも長けていたのは」 とミック・ジャガー。 「社会を捉えるということだろうな。自分が描写したいと思った部分なら、何だってかなり正確に写し取ることができた。 後になって、以前はどんな風だったかをみんなに示すというね。 ある時代のことを思い出したければ、アンディ・ウォーホールがその時やっていたことに目を向けるといい。 むろん、そのせいで批判されたりもしたさ。 トレンディすぎるとか。 でも思うに、あそこまで時代と寝れるというのは、立派な才能なんじゃないか」
「彼は途方もないウィットの持ち主だった」 とトム・ウルフ。
「でも彼の場合は、何もかもがひっくり返っていた。 彼のウィットは、ウィットに富んだ何かを口にすることではなく、何も言わないことで発揮されたんだ。 タイミングの問題なんだよ、ジャック・ベニ−と同じで。
彼の、知覚を麻痺させた人生へのアプローチには、芸術的な情熱がたっぷり込められていたと思う。 今じゃ、若手の作家が競ってぼくの言う知覚麻痺小説を書いている。 ウォーホールが始めた手法を、文学に取り入れたわけだ。 それはすなわち、クラブとかディスコとかのすごくエキサイティングな生活に頭まで漬かっておきながら、なおかつ何も感じないということ。 あえて、期待を裏切るわけだ。 ウォーホール極めつけのウィットとは、彼の名高い作品のうち、実際に彼が手掛けたものはひとつとしてない______彼自身、自分の作品だとは一度だって口にしなかった。 キャンベルのスープ缶やブリロの箱は、言うまでもなく別の誰かのイメージだ。 雌牛の壁紙や、バーピーの種のカタログから取った有名な花のシリーズにしても、それはみんな別の誰か、それもしばしばコマーシャル・アーティストが作り上げた物であり、芸術作品だった。 それに彼は何らかの手を加え、けれどサインしないこともしょっちゅうだった。 「でもウォーホールさん、この作品にはあなたのサインがありませんが?」 と問われた時には 「ああ、それは僕の作品じゃない」 と答えていた」
常に名声を回りに振りまこうとしたアンディ・ウォーホールは、ポップ界随一の民主主義者だったのかもしれない。
「彼はいつもみんなをスターみたいな気分にさせてくれたわ」 とスーザン・ブロンドは言う。
「その中でも一際光輝く、最大最高のスターは彼自身だったにせよ、ね」
文・カート・ローダー
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